オタクのブログ

乃木坂46さんやその他推しについて書きなぐるだけの場所

社会の人として。

「俺の上司は、俺のこと育てる気ない。仕事さえしてくれればいい精神だから、それが辛い。」

 

同期が言った。酒の席が終わったあと。ここ数週間、いまだかつてないくらい同期と話さなければならない事情があり、同じ路線で帰るから、話していた。

酔っていたのも少しあるだろう。苦しい中で話を聞いてくれる同期にこぼしたのかもしれない。

 

ありえないなぁと思ってしまった。

 

私は教育学部出身で、中学生くらいのときから【誰かに何かを教えている自分】が好きだった。だから先生になろうと思った。

大学で痛感した。誰かに何かを教えることができるのは、別に特別なことじゃないし、先生はそれ以上に頭おかしい世界で働いてるんだなって。

だからさっさと就職しようと切り替えた。中学生の時からもっていた目標もすごくあっさり捨てられたのは、結局自分の好きな自分でいたい、とかいうふざけた感情からくる目標だったからだろう。

 

それに、大学1年から3年の後期まで、自分の母校で部活の指導をしていた。

好きなスポーツを教えること、楽しかったし、なにより戦術なんかを考えるのも好きだった。このあたりで【人を動かす仕事がしたいのかも?】と思い始めた。

まぁ同時に動かされることを前提として、ただ動かされている駒のような人間は動かしてもつまらないなと思った。

まぁそれに高校生相手で、精神が未熟な自分が指導なんて本当の意味ではできてなかったし、心が音を上げて辞めた。

 

大学2年の後期から塾のアルバイトをしていて、それはもう、楽しくもあり辛くもあった。生徒と仲良くするのは楽しくて、でも、どんなに頑張ってもできるようになるのに時間がかかる生徒を見てるのが苦しかった。でも最後は笑顔で卒業していくから、ある意味、幸せだったのかもしれない。

 

大学の四年間、ずっと人に何かを教えている状態を続けていたからなのか、人に何かを教えることの面倒くささとか、かったるさみたいなものを私は得ることができていた。

 

「育てる気がないんだよ。」

 

なんてよく言えるなぁと思う。

育つ気ねぇくせに。

 

教育は、ボランティア精神みたいなものでぎりぎり成り立っているところが多い。

きっとそいつも善意で物事を教えた経験があるのだろう。

だからこそ、教えることは善意で、教えてくれないことは悪意に感じてしまってるのかもしれない。

勘弁してほしい。

教えることは、つまり経験を共有すること。それは自らの経験値を一度言語にしなければならない。その作業がどれほど大変なのか。そしてその作業を仕事中に善意でやれというのか。

 

ふざけてるなぁと、ちょっと過激なくらいの考えもよぎってしまう。

育てる気がないとか当たり前。だって上司は教師じゃない。上司は上司でしかなくて、教えてもらうこと前提に仕事をすることなんて、ふざけてるにもほどがある。そう思ったし、多分これからもそう思う。

 

仕事はボランティアじゃないし、利益をあげなければ会社は潰れる。新人に時間割くことの労力と同じ労力で仕事したら利益率上がるんだよ。ってことに気づかずに文句言ってる同期を見て腹が立ったし悲しくなった。そんなにしんどいなら今すぐ、場所を変わってくれ。ソッチのほうが経験値が増える。

 

なんで、ふざけたやつが経験値上がってくんだよ。文句言いながら。仕事したいよ、できるようになりたい。だからはやくそこからどいてくれ。